原曲『レット・イット・ビー』体感研修 法談レジュメ

2024年1月24日 渋谷精舎

【一人一人の感想】

○今までの人生、苦しいこともたくさんあったけど、今、本当の意味で幸せなんだと確認できた研修でした。

純粋な信仰がいかほど大切か身に染みました。

○今日改めて、「あの世から眺めると」を研修として聞かせていただいて、原因と結果の法則のところが凄く心に残りました。この法則を教えていただいているので、思うことを大切に生きていかなければと感じました。

○「あの世から眺めると」の歌詞で『あの時、こう思って』の思っては漢字で、『今度生まれて来るもう一つの人生をおもっています』のおもってはひらがな。同じ思うなのになぜ違うんだろうと考えていて、思うは過去のことなので確定しているから漢字、おもうは未来のことだから確定していないからひらがななのかなと思った。

○「あの世から眺めると」は視点が移動する。天使の視点から、そのカルマを生きている人間の視点へと変わる。

 総裁先生からは両方が見えていて、全体を慈悲で見ているというのがメロデイラインから感じられる。一番最後の あ~ あ~ あ~・・・の部分、あそこに一番思いがあるように感じられた。

 歌詞は理性で聞いていて、最後の部分は音だけなので感性で聞いている。だからそこに深く感動を覚える。

 そこが原曲のいいところかなと思う。

○自分の人生が一つの曲だったらどうなのかなということを考えた。今、帰天したとして美しい曲だとは思えなかったので、まだ時間は残されているので、仏の方向に舵を切って、あの世で聞いたときに少しでも、前よりはいい曲になったと思えるようにしていきたい。

○「あの世から眺めると」は上位の慈悲の視点から見てくださっているので、いろいろと大変なことはあるけれど、そこから何を見出していくのかというところを凄く感じた。

 自分が間違うこともあるけれど、その間違いからも学べるという、そういう世界を作りあげている主の慈悲を感じる。

「苦しみと信仰」、自分には純粋性が足りないところがあるので、天使の視点から今の自分を見る、ここを常に持っていないといけないと思った。慈悲の思いを感じて感謝で返す、ここを頑張りたい。

○命をはかなく終わらせるというのを自己犠牲だと思っているところがあって、

「始まりのイエス」で、物質世界を否定するために十字架にかかったと歌われていて、その意味がずっと分からなくて、今回原曲を聞いて「この世の苦しみは、物質世界の否定を意味する」これを伝えたくてイエス様は十字架にかかったというのが腑に落ちた。高級霊の自己犠牲は、あの世があるということを教えるためであって、命をはかなく終わらせるというのとは全く意味が違う、それがこの原曲を通して分かってきた。

 主の経典「言葉・愛・呪い」で言われている『救いたいと思うけれども救いきれない悲しみが、やはり必ずついているのです。愛しているという気持ちが悲しみにつながっていくんですよ。かわいそうなんですよね。かわいそうな人間なんですよ』という主の気持ちが、この曲のメロデイラインになって流れていると感じました。

○主と共に過ごさせてもらった時間、造物主とこんなにたくさんの時間を過ごさせてもらった感謝しかない。

○この映画はこの曲で作られていたんだと、曲を聞いただけでその場面が出てきて、この原曲が始まりだったんだとすごく感動した。

○自分が今までで一番苦しい時、精舎に通って祈っていた。

今日、原曲を聞いていて、その時主が一緒におられたんだと、にこにこして大丈夫だよって言われているのが思い浮かんで涙がボロボロ出てきた。気持ちがいっぱいでもう語れません。

○「そんなことをしていていいの」で思いあたることが多すぎて。自覚させられる歌。

怠惰な自分を治していこうと思った。苦しい時って、自分の苦しみに捉われて、天使の存在とか感じられないけど、でも過去にもそういうときにこそ一緒にいてくれたんだと思って感謝しないといけないと思った。

【ここからは自由法談】

A 「苦しみと信仰」これから起こること、予言が入っているのかな。

不思議な体験がとか、信仰の証がとか。

「地球の心」でもありえないことが起こるとおっしゃっていたので、これからそういうことがおこるのかな。

B 信者に聖痕が現れたりするのかな。

C 受け止める心があれば現れるんじゃないですか。

神秘的なことを受け入れないと現れない気がする。

D キリスト教でもプロテスタントみたいにギチギチに聖書とおりにやっていると奇跡を弾くというのはある。

C 自分の枠を外していかないと起きない。

漏尽通力、観自在力、あれは何のために出されたのか。霊現象が起きたときに自分で自分の心をコントロールできるようになりなさいということだと思うけど、それ以前に神秘力を否定する何かがあったら到達しないし、それは総裁先生が望むところではないと言う気がする。

D 本来、過去の大乗仏教は霊的現象なんて当たり前、それがあることを前提に大乗運動が広まっている。

キリスト教もイエスの復活というのを目の当たりにした、もしくはその話を聞いて、霊的世界の確信ができた人、この世の命を超えた世界があるということを確信したからあれだけ広まった。

これが今から私たちに求められている意識のレベルなんだと。

今回、この原曲を受けて、主の願われている「ここまで来てください」というレベルが自分たちが思っている以上に高いというのに気が付いた。

C これからいろんな奇跡現象が起きるんじゃないかな。藤の花とか、もう起こっていますしね。

それを真剣に捉えて、自分の中で消化していくことだと思う。

主に近づくというと、愛の心を深めないとということもあるけど、今回の原曲のなかで1曲目は神の視点と、あれ、地獄霊の視点だと思うんだよね。 前半は主の視点、後半、あの時~は地獄霊の視点なんですよ、多分。それを主は側で見ている、側で支えているという、その上下の視点で歌っているじゃないですか。それは主は、今、この場にもいるということの表れ、その人をちゃんと愛しているということの歌詞表現。それが慈悲、悲しみとしてメロデイラインになっている。

それは自分たちの愛の心もそこまで到達しないといけないということ。

D 今度来るもう一つの人生って、次、生まれ変わる時の人生ってニュアンスがあると思うので。

E 苦しい地獄を思い描いているのかとちょっと思った。

C あの人は地獄ですね、後悔してるし。

D 無明というのが分からなかったと言っているから。後悔の思いがあって,家族を超えた世界というところまで認識が至っていない部分が天上界の上のほうではないなと。

C 地獄から一歩上がって、次の人生はこうしようというところなのかもしれない。

D ある程度は何らかの救いはあってる。

E ちょっとは自分のことは見えているから、苦しいだけでもない。

D 反省を感じるというところまではいってる。蜘蛛の糸は掴んでる。

E 感じるだから、まだ反省にははいっていないってこと?私は反省しなきゃいけないらしいって感じ?

C 人生の分岐路はいくつかあって、そこのところを変えていく前段階ってところですかね。

A そんなことしていいの?とか、軽く見ていいのとか。

C 守護霊的な

E えっ!あっ!それは守護霊だから囁いてるの?

C そう思いましたけど。一番最初が先生で、途中、守護霊視点になって、最後は本人視点になって。

A,B,E あ~、だからそうか、だから囁いているのか。

E 守護霊が耳もとで、あなた違っているよって囁いてるのか。

C 守護霊は自分の分霊だから認識力には限界があるじゃないですか。その上には指導霊がいて、先生がいるってことだから。その全視点で見たときに、どう見ているかってことだから。

A 霊界構造が現れている。

E 先生の楽曲って視点が動くの多いですよね。歌詞もしっかり見ないと分からない。

D オペラのように演じる人がいて、その対話編みたいなのもありますよね。

一つの歌のなかに登場人物が何人かいたり。

B 原曲研修でちゃんと受けないとそこまでは分からない。

C 受けないと分からないし、話さないと分からない。

自分が話していて、自分じゃない、インスピレーションを受けているだけ。

E 法談しないと、ずっと囁くって何だろうって思ってた。

原曲と楽曲、同じメロディじゃないけど。

A 楽曲はナビゲーターと思えばいいのか。導入みたいな。

C 楽曲は入りやすいといえば入りやすい。この世的に翻訳されているから。

原曲の場合はバイブレーションそのままじゃないですか。この差はどうしても埋められない。

楽曲は結局、五線譜にたいして合わせているから、それってあとで人間が作ったものじゃないですか。

A 主の声から思いのバイブレーションが出ている。すべて愛だから。

それは原曲を聞かないと分からない。感じられない。

F 原曲によって違いがある、これは自分にあっているとか。パシッて合うのがある。

D そもそも原曲はお多福の想念を浄化する意味があった、歌わせないようにして、原曲を嫌がってた。

C 原曲自体が魂の変容を促すということだと思う。

原曲を歌わせないというところについては、それによって法を広げないという意図があったでしょうし、原曲を聞くと自分の何かに気づく。今まで先生が説いてくださった法を学んできて、変容しきれない部分がどうしてもある。それは法を一度理性で受け止めて、言葉で受け止めて、理解したところで止まっている。

法は理解だけではなくて行動まで変わってこなきゃいけなくて。その行動のところまで繋がっていかないというのが問題で、それが一つ、法が広まらないことの原因であるし、それを打ち破るためには、魂に直接バイブレーションを打ち込んで共振させるということが必要、そのための原曲だと思う。

それを止めたら、それ以上広まらない。そいうことがあるということをどこまで把握できているか。

その原曲自体を、魂の救済、変容というところまで意図して持っているか。

妖怪性というのは、自分でごまかしているところだから自分で気が付かないんですよ。

普通の反省だと気が付かないで、原曲を聞いた後に、ここ反省できてなかったじゃんと気づくところが結構いっぱいでてくる。それは気づかせたくない側には嫌なこと。

そういうふうなところを押さえるという意味があったと思うし、世界宗教になります、世界の民を救済しますだったら、そういうとこまで含めて、その変容の部分まで含めて、研修に臨まないといけない。

今、ここまで話していて、いろんなインスピレーションが降りてきて、気づきもある。

その気づき=自己変革、そこまで研修に組み込まれていたら嬉しい。

D 地球の理念として、美と知と言われているけれど、知のほうは今までの文明の中で結構やってきている、でも、美のほうはかなりおろそかにされていて、会のほうもまだもう一段、次の美の法門に変わっていかないといけないと思う。

C この三次元世界の美ってあるじゃないですか。

美の概念、それって何ですかって話なんですよね。それ自体が、先生が思われている美と違うんじゃないですか、捉え方が。

楽曲を聞くと、最初は違和感がある、その違和感って今まで自分が聞いていたものと違うから、今まで聞いてきた楽曲は、この三次元世界で培ってきた音楽の世界。で、どちらが正しいかというと先生の方が正しい。

同じようなことは美の概念にも言えてる。今までこの世界で培ってきた美と、先生が創造されようとしている美とはかけ離れている。そんなところにも気づかされるのが原曲。

まずは愛があって、個性が出てくる。

世界を創造されるときに、はじめに思いがあって、思いはバイブレーション。そうすると原曲はあきらかに近い。そこに自分の魂を共振させることができるということが大事。

理性じゃないアプローチで悟性を感じさせる。今までにない宗教のあり方が今、起こっている。

だから、それに対する違和感としての反発もある。

D 本来原曲は秘儀、まだ宗教的秘儀の位置づけにまでされていない。

仏言として、『原曲は宗教的秘儀。霊示であり、御神示である。』との言葉があります。

宗教という概念自体が、もはやおかしいのかもしれない。

※法談はいろんな話しが出るので、あくまでも個人の意見であり感想になります。こちらに掲載するにあたり、適宜編集させていただいていますのでご了承ください。

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