原曲「法力」体感研修

2026年2月8日

【グループ①】

A:「魔になど、負けるわけには決して参らない。」って歌詞で、これって自分が思うに、外的な魔というより“己心の魔”のことかなっていうイメージが強くって。

結局たんたんと、亀のごとく、ただひたすらコツコツとやるしかないのかなって感じの曲だったなって、自分の中で思うんですけど。

ちょっと気になる歌詞があって、「人間の迷いなんてそんなにたくさんはあるものではない。」ってところ。

結構ここがハッとさせられるというか、色んな悩みがあるように見えて、以外と悩みなんてあるものじゃないよ、って。まとめたら、貪瞋痴しかないのかなって。

でもやっぱり、色んな悩みに悩まされると思いがちだけど、実はシンプルなのかな、って。

そこらへんを探究、学んでいくのが修行なのかなって思いました。

今の僕が思うのはそこです。

B:私が気になった歌詞は、「たかが人間界の欲にしか過ぎないものなのだから。」っていうところが、悩んでる時はすごく大層に思ってても、「たかだ人間界の欲」、肉体を持ってる欲、だからもっと霊的になったら、以外ともっと簡単に、パシッと出来るのかなと思いました。

「ただひたすらに戒律を守って、前進し続けることが大切なのだ」って、こういう研修に出ると思うけど、全然反省も出来てなくって、八正道も。

だから、一つに絞ってでも、やり続けないといけないなと、今日思いました。

C:やっぱり、自分の欲をコントロールすることが大切で、自分の欲をエル・カンターレの夢にかえることがポイントだと思うようになりました。

(※途中で音声が途切れました。)

自分の欲が、お金持ちになることだと思うと、慢心してしまうので、例えばエル・カンターレの法を地球に広めるとか、もっと大きな欲を持つことによって、慢心をしないで、努力することが出来ると思いました。

D:色んなキーワードが関連づけて出てくると思うんです。

“凡事徹底”とか“ちはやふる”の駒のような心だとか、色んなところが出てくると思うんですが、一つ思い出したのが、以前に支部長から教えてもらった、おそらく職員向けの公案らしい『修行の原点』の第一条が、平静心だったんです。日光の『修行の原点』とは違うらしいです。

それがずっと心の中にあって、いつも心掛けていたんですが、でも課題というものは、所々出てくるもので、心が揺れることがあって、例えば「怒らない。どんなことがあっても、心は平静でなければなるまい。」ってここで書いてあって、歌詞も全部覚えるぐらい、好きなんですけど、それでも心が揺れたりして、人生の問題集っていうのは、奥が深いものだなと思いました。

あと、「愚かさ。」が、「目に鱗をかけた。」ってあるんですが、目に鱗っていうのは、元々は聖書の言葉で、「目から鱗が落ちる」っていうのがあったんです。

ペテロのダマスコの回心、ダマスカスで目が見えなくなって、その時にイエスの弟子に治してもらうときに、「目から鱗のようなものが落ちた」って、聖書にあるんですけども、それが元ネタで、それも考えると、信仰のなさも、愚かさの一つなのかなって、思いました。

例えば、未来を明るく変えるってあるんですけども、『未来への祈り』の中で、どんな心が未来を明るくするのかって、具体的な展開として、四正道が説かれますが、その中で、「仏法真理を活かしましょう」とか、「愛を与えていきましょう」とか、ありますけども、仏法真理を活かすことが出来るとか出来ないとか、そんなんに直面すると、実際に出来たかどうかっていうのは、やっぱり反省材料になるっていうことが、最近ありまして、すごく反省したところです。

もう一つ思ったのが、信仰の道と悟りの道が一緒だっていうこと、この歌詞そのものが、“二河白道”かなって思いました。

二つの河の間にある白い道、片方側に欲望の渦巻くもの、もう片方には怒りの炎の渦巻くところがあって、その間に白い道があって、後ろから信仰の迷い、「そっちに行くな!引き返せ!」っていう言葉が後ろから言われたりするんです。

そういう“二河白道”かなって、思いました。
信仰の道と悟りの道は、一体。

で、研修の『降魔の本道』も、結局は、信仰の道と降魔の道は一体だっていう結論に自分は達したんですが、そういうことかなって思いました。

E: 「たかが人間界の欲にしか過ぎない」って、主から見たらそうなんですが、私達人間にとっては、とんでもない大きな欲で、それに振り回されてる、ですよね?

大きな存在から見ると、「こんなちっさいもんなんだよ」って、言われてるように思って、「そうか、自分って小っちゃいなあ」って思いました。

最近自分の中で、戒律、目標「早寝・早起きする」とか、色々立ててるんですが、なかなか出来ないんですよ。
早寝はいいんですけど、早起きが一番嫌いで、なんでかなって、ずっと思ってて。

早起きすると、いつも出てくるイメージが、子供の時のお母さんの「早くしなさい!」っていう、せかされる、「早く学校行きなさい!」「早く食べなさい!」ってずっと毎日言われてるイメージが出てきて、今でもそういうのがふっと出てきて、慌てるし、イライラするんですよ。

「なんで私、こんなに急かされなあかんの?」って、今でも思うんですね。

今一人暮らししてるから、もうお母さんはいないのに、自分一人の中で、アワアワして、イライラして、イライラしながら家をるんですよ。

「これ、おかしいな?」って思って、全然平静心がなくって、爽やかな朝にならない。

これ、子供の時の思い出に、私が執着してるんだなって、思いました。

「無我観の瞑想」で、「これは、自分がこの時のことに、ずっと腹立てて、それをずっと持ったまま、大人になってるんだな」って。

当時のお母さんに文句言おうにも、言われないし、今言うのもおかしいし、これは自分の中で区切りをつけなければいけないなって、一区切りつけることが出来ました。よかったです。

だからこれからは、自分の意志で、早寝・早起きをする、誰にも急かされてやってるわけではない、っていうふうに、新しく決定して、早寝・早起き、頑張ります。

言ってる内容が小さいかもしれないけど、それの積み重ねで、まず生活を良くして、霊体、心を整えて、波長を整えていきたいと思いました。

D::『貧乏神を追い出す』研修?の中に多分その、早寝・早起きがあったと思います。

E:そうですね。昔、『貧乏神を追い出す祈願』を受けたことがありますが、その時に祈願文を見て、「まさか!」と思って、イラっとしました。

貧乏神を追い出すには、時間の使い方が大事だってことかなと。時間がお金になるし。

D:実は、今日反省した中で一つ思ったのが、偽我のお面を炙り出せないかなと思って、聞いてたんです。

そうしたら、愚かさの反省っていうので、“スマホ”って出てきたんです。

「チラチラと、仕事中にみてるやろ?それ、時間の無駄やで。見てる累積時間をわかっているのか?その時間があれば、勉強に振ることが出来るやろ?だから、時間がないのでなく、無駄が多い。」って言われました。

ちょっとこれは反省です。最近そういうことが多いので。

E:一番最初に、先生の声でメロディが流れてましたけど、あれはどんな感じのメロディでした?

D:最初のフレーズがちょっと弱くて、その次にちょっと強めの、音楽になって、フェードインしてるような印象でした。

多分そのメロディラインがベースになって、曲に入るのかな、って思います。
最後もフェードアウトしていきますね。

あと、「電撃一閃」のところで、1拍ズレてるって言うか、1拍溜めがあって、「電撃一閃」やったんで、ちょっと強い力が入ってるような、力がこもってるような印象を受けました。

【グループ②】

A:講師が、イントロのところが大切って、おっしゃっていて、はっきり、何かわからないけど、「仏道修行するぞ!今からいくぞ!」って、仏弟子がみんなで行進しているイメージが出てきました。

最後の「Ah,Ah,Ah」のところは、段々小さくなっていくのが、その行進の後ろ姿を見てるような。

「法力を得るぞ!仏を守るぞ!」って決意した仏弟子軍団が歩いていくイメージ、力強いものを感じました。

主を守るために、法力を得て、もっと力強い仏弟子になりたいなという思いも出てきました。

迷いはたくさんあるのでが、最近のことで、支部で法人祈願をするという話があって、でも私は自分でさせていただきたい祈願があったので、最初声をかけてもらった時、お断りしたんですが、電話やLINEで根気強く誘われて、「どうしよう?どうしよう?」ってずっと迷っていたら、霊障になりました(笑)

霊障って言っても、そんなたいしたことじゃないけども、先生が「経営者の判断でも、すぐに判断しないと霊障になります」って、おっしゃっていたのを思い出し、ずっと、「自分の本意でない、私はこの祈願を受けたいのに。でも大事じゃないわけでもないし…」と、囚われていたんでしょうね、ずっとモヤモヤしてて、「こういうのが霊障っていうのか!」と思って、実感しました。

だからもう「するわ!」って、支部の祈願したんですけど、したら、スッキリしました。

でも、「言われたから祈願した」と思うから、しんどかったんだと気づいて、自分で決める、「それだけ誘うんだったら、大事な機会だと思うから、受けるわ」って言ったあとは、スッキリしたので、他の迷いでも、囚われるってこういうことなんだと学びました。

そういう状態なら、法力なんて得られないので、自分なりに、スッキリ、はっきりと決意していけるような、真理知識を得ながら、主の思いを感じられる、原曲研修を重ねていきたいと思いました。

B:この「法力」も好きな曲で、自分に言い聞かせる曲だったんです。

私はすぐ、あせってたり成果主義になったり、煩悩に振り回されるので、聞きながら「そうだよね、そうだよね、それが大事だよね」って、自分に言い聞かせる。

でもすぐ忘れるから、また聞いて、確認する、そんな曲でした。

その原曲を開示してもらえて、すごくうれしいです。

前奏のところは、自分の覚悟を求められるような、禅寺の座禅中に警策でバシッ、バシッって叩かれるような、背筋が伸びるようなイメージになりました。

最近歌詞にもある、「求道心」のことを考えていたので、「主の愛や法を、素直に受ける謙虚さ、従順さも大切だけど、ただ受け身だと自分のものにはならない、だから、自分から求める心、求道心の両方がが大事」だと。

それが主や天と一体となるコツじゃないかと、思えました。

Aさんも言っていたように、自分の意志、決意が必要なんだと。

どこかで、”自己を客観視する大切さ”ってあったと思いますが、表面的な言動の反省からの戒をたてて、それを守っても、その奥の心根まで見てなければ、違う形でその傾向性が出てくることの繰り返しになるので、深く自分の心を見つめていくことが大切だと感じました。

それも、「主をお守りしたい」とか、「主を信じ、愛し、一体となる」とか、高い志を打ち立てながら、理想の自分を描いて、教学し、自己観照し、やっていく。その繰り返し。

その中で、焦りの心も出るけど、先生が小説で見せて下さったように、読み返し、この歌も聞き、ただ亀のようにやっていくという無限の修行の道が、最近やっと、それが幸せなんだと思えるようになったので、そこはちょっと成長したな、って思えてます。

C:私が前奏を聞いた感想は、最初の「魔になど、負けるわけには決して参らない」が強い言葉じゃないですか?

あそこは、仏から見て、悪魔の恐怖心を炙り出しているのではないかと。あの前奏はそう聞こえました。

仏が悪魔に対して、「あんたはこういう心だろ!」って言ってるように、聞こえました。

悪魔の側からしたら、「来るぞ、来るぞ」っていう、恐怖心が出ている。

仏から見たら、「あんたの想いはそうだろ?っていう、そんな前奏かと。

結局、降魔って言うのは、正義と悪が戦いあってるような、そういうイメージになりがちですが、そうじゃなくて、主の側は、あくまでも愛なんですよね。

その観点がないと、単に「あいつらは悪いことするから、憎たらしい」っていう思いがでちゃったりすると、おかしな方向に行きますので、それが大事かなと。

で、前奏のイメージの続きで、そういうイメージがあって、仏から見た時に、苦い薬を飲まそうとして、子供が嫌がってるような、そんなイメージが出てきました。

その嫌がってる子供が悪魔で、その心境をあの前奏のメロディでやってる、そう感じました。

あくまで仏の側は、愛だってことですね。

で、仏はすべてを愛されてると言われてますが、仏が悪魔たちがそうなる前の状態を知ってるはずなので、それを知ってるからこそ、「早く立ち直ってほしい」っていう思いがあるはず、と感じました。

一番引っ掛ったというか、あれ?って思ったところが、戒を立てる時、ですね。

色んな戒の立て方を深く勉強はしてませんが、表面的なことでなくて、戒の目的はあくまでも自我を取り去るっていくこと、そこに目を向けないといけないですよね?

表面的に、真面目に生きているように見せかけているとか、そういうのじゃなくて、あくまでも自我を取り去っていくために、戒を立てるってことは、気をつけてないといけないなと思います。

あとは、「無我観」のところで、結局、この世に生まれる前の魂の状態に立ち返るってことですかね?

これを時々しないと、考えの中に入れないと、そうしてもこの世的になってしまうってこと。

講師のお話にあったんですが、釈尊でも誰にしても、一生の間、心を磨き続けて、ことですね。

一回降魔したからもういいでなく、何度も魔が来るわけですね。
だから何度も祓い続ける。

無我の法力について、私が思ったことは、「成功のための祈り」を、自分の成功でなく、人の成功のために使うことが、無我からの祈りになってくると思う。通じたと分かる時がある。

なんか、この祈りはちゃんと聞いてもらったと分かる時があります。

自分を虚しくする。

祈りの形、祈りの言葉の出し方も、自分を語るような思いで祈りの言葉を読まない。書いてある通りに、まっすぐに読む。

それをやった時に、何とも言えない幸福感、繋がっていくような感覚、光のオーロラが当たるような感じ、「これは神様とちゃんと繋がった」っていう感覚になったことがありましたね。

この歌詞は、難しい、内容が濃い曲だと思います。

D:私はまだ三帰して間もなく、先生の御本もあまり読めてないですし、この曲『法力』もはじめて知りました。

専門用語など、言葉ともちょっとよくわからなく、信者としての考え方とかも未熟なので、何とも上手に申し上げることが出来ないんですが…

一回目、二回目聞いた時は、ただ単純な感想なんですが、前半が“静”で、後半が“動”だなと思ったんです。

前半の“静”の時は、私はインドが好きで、ブラブラしてたんですけど、ブッダガヤへ行って、色んな僧の方がいらっしゃるところで、自分は「正心法語」をよんでた時の、そのしーんと静まりかえった、その“静”のイメージが、ばぁーってここに、前半にはきました。

そして段々段々と気持ちが高まっていって、最後先生が、「電撃一閃!」ってこう、すごい力強い言葉で言った時は、今度“動”を感じるみたいな、すごい、何と言うか、体が温かくなって、「よし、自分も!」っていうようなイメージになりました。

だから、“静”と“動”の、曲かなと思いました。

法力って、「悪い人、他人を斬る。切り倒す!」みたいなイメージが本当にあったんですが、3,4回目聞いた時に、「まずは自分を斬らなきゃいけないな」って思って。

自分の色々な欲とか、まだまだ信者としてふさわしくないような、「あと何転生もしないと、ここまでたどり着けないな」って言う自分を反省して、「まず自分を斬らなきゃいけない!」と思って、それから「愛をもって、皆さんに接しなきゃ!」っていうことしか思えなかったんです。以上です。

講師:研修中にも触れましたが、私があるところで、とにかく“降魔”をやっていたけど、出てくる成果が、伝道が進むとか、発展の方に出てきていて、それの意味がわからなかった。

本人の感覚は、“魔”を降しているんだけど、外に現れてくる姿っていうのは、発展の姿。

成果の出る発展したら、「やったー!」って、普通喜ぶけど、多分そこにモチベーションを置くと、逆に成果は出ないと思う。

自分達が成果を出して、喜んでいる姿をイメージして、そこを目指して何かをやろうとしたら、出来ない。

先生はそのことを、“シャンシャンパーティ”っておっしゃってたと思う。

自分達が喜ぶことばっかり思って活動してても、実はそれ、出来ないんですよ。

A:よく、「達成してる姿をイメージしなさい」って、言うじゃないですか?

講師:それは、自分が喜ぶことじゃないんです。

成功とは、多くの人が幸せになってることで、自分達が喜んでいる成功の姿を思ってやると、実現しない。

だから、人や街が何を求めているのか、それを目的として、目指して、それが達成して、「よかったね」と喜ぶのは、自分のためじゃないですか。

“シャンシャンパーティ”っていうのは、自分達が達成して喜んでいることですよね。

先生が、「“シャンシャンパーティ”がいけない」って言っておられるのは、結局心の力で発展するのに邪魔になってるのが、自分達が喜びたいっていう心なんだな、っていうことが、今日の研修をやりながら、わかりました。

ここは間違いやすいところですね。

また、降魔をしていた対象の、中心の方のことですが、その方は当会に対して、ものすごい怒りを出すけど、その原因は、「自分が認められない」っていうところが見えたんです。

その人も地元の名士。

だから自分も成功者として扱われたいのに、先生によって自分の存在が霞んでいる。それに対する嫉妬。

それが反対運動のモチベーションになっていた。

でも、「自分もあの時そうだった」ってことに、研修をしていた時に気が付いきました。

そんなに大きくはなくても、自分にも、認められたいというマインドがあって、お互いの認められたいというマインドがぶつかってたということ。

相手だけ一方的に悪いと思っていたら、自分にも同じものがあったと。

まさに「法力」って反省からでるものだと気づきました。

「打ち破れ!」って言ってるところは、全部自分の心のところのこと。

“法力”を、相手の魔を降すものかと思っていたら、全部自分のことを戒めて、それが“法力”になるということ。

でもこの歌のことを知らなかった、覚えてなかった(笑)

なんで覚えてないかと言うと、歌詞の内容が当たり前だから。

先生の法として見たら、ずっと今まで勉強してきた内容じゃないですか?

だから映画の時は、普通に聞こえたから、覚えてなかった。

今日は、研修の磁場の中で聞いていたら、「これ、自分のことだった」って気づきました。

“法力”って、自分を戒めることで魔を降す、ってことかと。

C:『降魔の本道』の研修も、ほとんど自分を戒める内容でしたね?

あれが意外でしたが、そういうことなんですね。


※法談はいろんな話が出るので、あくまでも個人の意見であり感想です。こちらで適宜編集させていただいています。



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です