原曲「15才」体感研修

2024年5月9日 大阪正心館
A 今日はある程度、理解できないと思っていたので、理解するというよりもバイブレーションを、ただ単に浴びようと。温泉に浸かりに来た(笑)みたいな感じで、受けようと思っていました。
でも、講師の解説で、理解できないことが理解できたというか。前に聞いた時はまったく分からなくて、何が分からないかも分からないぐらい、全然分かりませんでしたが、紫央様が「同じ田んぼを見ていたのに、こんなに先生との心境の違いがあるのを感じました」というのを、うちは紫央様よりもっと遠いですけど、そんな感じがすごくしました。
そういう教材を出してくれた先生にすごく感謝しています。主の偉大さがわかりました
B 「絶対無」って言ってるけど、主はずーっと、「絶対有」の状態じゃないかと思って。
ビック・バンが起きる前からずっと主はいるので、主だけが永遠に「絶対有」の状態で、私たちはまだ生まれていないから「無」だけど、三次元宇宙が出来た時に、私たちが「絶対有」になったのかなと。
先生の生きている肉体は「絶対有」だけど、主にとって「無」の状態はないのが本当の状態ではないかと思いました。なんか不思議な感覚でした。
あと、歌詞の「まだ固まらぬ胸に 一つ二つと何かが刻まれてゆく」っていうのは、なんだろかと思って。
C 15才で固まるのは難しいと思って。私が15才の頃、色んなことに興味が分かれるし、誘惑で色々曲がっていくので15才では固まれない。
西田さんの本というのがどんな本かわからないので、そのぐらいかな。難しい。でも、この世の時間は短いけど、あの世に行くためには透明な心を磨かなければいけない。曲を4回聞いた、私なりの考えです。
D 僕は先生がお兄さんやお父さん、家族と哲学の話をしていたから、「絶対有」がわかっていたけども、多分家族はそこまでわかってなかったから、説得しようと思ったけど、15才だから出来ず、寂しい思いをされたのではないかなと思いました。
E すごい、と思って。「絶対有」なんてわからないけど。先生の大学シリーズも大好きで、哲学者の難解な言葉をサラッと一言で説明されているので大好きなんです。
今回も、「絶対有」って、神の境地、神様しかわからない、創り主しかわからない。
「一千億年の孤独」って、先生は孤独って言われたんですけど、じゃあ、私たちは孤独かっていうと、三次元で生きていて、孤独な瞬間もあるけど孤独ではないんだなと。
先生だけが孤独を御存じで、私たちはこの地上に生きていて、色んなことがあって、悩みの中にあっても、全部が光、喜びに変えられるような、そういう孤独じゃない世界に、実は生きているのかなと思いました。
もう一つ思ったのが、原曲研修で、透明な心や美の世界を学ぶのと、この三次元で生きていて、政党のこととか、事務的なこととか、色々ごちゃごちゃするけれども、その中で智慧を磨いていくんですけど、そこと、透明な心との関係は、どうあるべきなのかなと、今日考えていました。わかんないです(笑)
F 歌詞の「生きねばならぬ 生きねばならぬ 絶対有の世界に存在する肉体は 生きねばならぬ」を考えた時に、この前生誕館で原曲『あるコオロギの願い』を聞いて、「もういいんだ」、「これが生きることか これがほんとうに生きることか」のところが出てきて考えていたら、生誕館の帰りに、先生の御生家へ寄って、そこに先生がいらっしゃった時、書かれた時に、ちょっと行けたような気がして、「ここで思われたんだな」と感じていました。
最後に、「私が創ったこの世界で、頑張って生きて下さいね。」って感じと、「どうですか?あなたは私が創った世界は美しいですか?美しく見れますか?」って、聞かれているような気がしました。
全部繋がっているんですかね、流れが。よかったです。
G 最初に聞いた時、「生きねばならぬ」のところに、すごく強さを感じて。確かに、寂しさ、孤独感も歌われていると思うんですが、その奥になにか、煌めきとか、生きる力、光とか、そんな逆のものを感じました。
あと4回目を聞いている時に、何とも言えない感覚、まるで絶景を見た時のような、すごい世界を見たような感覚?うまく説明できないけど、そんな感覚にちょっと浸ってて、もしかして先生が見ている世界観の一つを、垣間見せていただけたのかなと。
あと先生って、無意識に詩の中へ、後世の人々に向けてのタイムカプセルのように、メッセージを埋め込んでいるのかも、と感じました。それをどこまで感じられるかが、一人一人の悟りではと。
B みんなの感じるポイントがバラバラで面白いなと思いました。それが個性だなと感じました。
【法談に参加できなかったYさんの感想】
原曲研修「十五才」参加させていただきました。 私の感想は、かなり独善的でウザいので、スルーしてくださって結構。でも、書かずにはいられない!
水曜日に、ほぼ休館状態の大阪正心館にお泊まりさせていただき、5月研修でいただいたインスピレーション、「人生に優先順位をつけよ」という宿題について考えようと、誰もいない宿坊の中で、いろいろ思いを巡らせておりました。
ふと、原曲研修「十五才」のお知らせが目に止まり、休館状態で食事の提供もないのをぐっと堪えてここにいる意味がわかりました!ああ、これを受けよ!ということだなと。
講師のご解説は、美しい波動で、原曲や、詩を学ぶ意味を教えてくださいます。この「十五才」は、難解で、原曲研修に参加しなければ、難し過ぎて読み飛ばしていたことでしょう。 哲学者西田幾多郎の難解な思想に、僅か十五才の主が真剣に向き合っている。
講師は、大学生の時に、西田幾多郎の思想を学ぶために氏の本を買い求めて読んでみたそうです。しかし、ページを開いても難解で、全く理解を許さなかったと。 その難しい思想を、主は二十才の時に梅林を散策しながら体験したそうです。
そして「西田幾多郎の『善の研究』と幸福の科学の基本教義『幸福の原理』を対比する」を読んだ時、初めて西田幾多郎の思想がわかったのだそうです。
こうして、詩篇や小説を時系列で、主の幼き頃より順番に学んでいくことで、主の凄さが、偉大さが改めてわかりますとお教えくださいました。
私は今まで、法を学ぶことは当たり前に弟子の使命だと思っておりましたが、この研修に参加させていただいて、主の世界観を学ばせていただくことの意義を、その重大さを、ありがたさを、初めて!ヒシヒシと感じさせていただきました。
帰りに詩集「青春の卵」をいただかせてもらいました。 家に帰って読んでみると、あら不思議! 主の見ておられる情景が浮かんで来るようです。
まるでその場の匂いまでが、私の周りにも感じられるような。 青春の頃の主の心に入っていくような、不思議な感動をいただきました。
きっと天上界の御慈悲や、講師のご解説の神秘のパワーが働いているんでしょうね。だって私、そんな感性豊かじゃないですから!
主を愛する、ということは、主の世界観を知ろうとすることなのか。 そのために、主の生を身近に感じ、肉声をこの耳に聞かせていただける私たちは、なんと稀有なる時代に生きさせていただいているんでしょう。
楽曲を学んだり、詩集や小説を学ぶことは、来世の自分へのプレゼントだと講師がおっしゃってました。 この研修で、私は、新たな自分のページが開いたような感動がありました。
原曲研修を学ばせていただける御慈悲に感謝し、 今世、誠実にエル・カンターレの世界観を学び、信仰を高めてゆきたいと思わせていただいた記念すべき研修となりました。
【メンバーからの格俳句】
「結局 純粋経験とは 涅槃の境地なり」
「絶対有のなかを生きている それが魂修 行である」
「絶対無を誤解すると ニヒニズムに通じ 自殺の勧めになる だから 強く生きねばならぬと言ったんだね」
「絶対無は存在するか それは認識力に よって異なる 低次元宇宙は存在はなかっ ても 高次元宇宙ではあることもある」
※法談はいろんな話が出るので、あくまでも個人の意見であり、感想です。こちらで適宜編集させていただいています。