原曲「たとえ黄金の雨が降ろうとも」体感研修

2026年9月10日

A:感想の前に質問がありまして、「足ることを知る」って言葉があるじゃないですか?そこと、アニミズムでいう「あるがままに」と似てるかなと思ったんですが、その違いを教えてほしいです。

講師:今回の原曲研修では、そこが疑問として出るなと思ったんです。

オープニングの最初のご法話の中で、「代償の法則」について、「その最大なものが、この世的なものに執着しない。どれだけ捨てられるか」と言われてますが、ここにポイントがあって、この世的なものを捨てると、自己実現が出来なくなる。

「足ることを知る」とは現状で良しとするとも思われるが、ちょっと違う。

『愛の発展段階説』P16の中で、「私の語る愛の発展段階説は、与える愛の発展段階説。しかし与える愛とは、自分を捨てて、他人に奉仕せよという意味での、与える愛ではない」って書いてある。

皆さんも、自分を捨てて他人に奉仕するって思ってませんか?先生はそれを違うとおっしゃっている。
「一見聖なる愛のように聞こえるけど、自己犠牲は愛ではない」と。

「愛の根本にあるのは、聖なる自他一体感であり、自他が一体であるとは、捨てるべき自分ではない。愛すべき立派な自分があるということが前提となる」。

つまり愛すべき自分がまずあって、それを育てて、それで溢れた部分を人に愛として与えるというスタンス。
今の自分をそのままで犠牲にして、人に愛を与えるのは違う。

あくまで自分自身を大事にし、成長させること。
「足ることを知る」とは、そこに戻ること。
「あれもこれも足りない」って言っていると、自分を見失う。そうでなく、「足ることを知る」と、そこに愛すべき自分が現れてくる。それを大事に育て、成長させていく。

これが今世自分が生まれた目的で、自分が大きくなるほど、人に愛を与えることが出来る、それが与える愛だと、先生はおっしゃっている。

「すなわち与える愛とは自分という器に愛が満ちて、その愛が外へと溢れ出していく姿」と。

『メシアの法』の中にある、バットマンの自己犠牲の例は、それまで自分を大事に育ててきて、成長した力で街を守ってきた。だから最後の自己犠牲は、バットマンにとっては幸福なこと。

「足ることを知る」とは、大事にすべき自分を見出し大事にし、その自分自身の立場にもう一度立つということ。そこから成長し、人に愛を与えていく。

このプロセスを透過せずに、ただ自己犠牲的な成功しようとすると、最終的には成功しないし、自分の成長が出てこない。そういう意味合いで捉えたらいいと思います。

この曲にもあるけど、成功しようとするとき、人はなかなかコツコツと努力していけないもの。時間かかるし、鍛錬の力がいる。

そこを「面倒でやってられない」「霊力でやれば手っ取り早い」と思うのが、アニミズム。

でも仏からみれば、成功が目的となって、その人の魂が成長しない。だから最終的には失敗する。
でもみんな、この世的成功を、手っ取り早くほしい。

映画『ドラゴン・ハート』でも、シャンバラへの入り口はとても狭く描かれていた。
本当の成功への道は、そんな狭い道を入っていかないといけない。でも時間がかかるし、悟りがいるし。
当会もここがわかれば、もっと発展するし、先生はそういう法を説いているが、実践する人が少ない。

A::ありがとうございます。
日々信仰をもって生きられること、普通だと思えることにもっと喜びをかみしめていくこと。

原曲研修を受けられることもそうだし、自分はとても幸福だということを感じて、日々の感謝を深めていきたいと、あらためて思いました。

B::僕は、『私のパンセ』とか『ただ一人往く』で言ってることと同じだと思いました。

まだ成功していないけど、コツコツ努力していって成功することが『私のパンセ』、この曲は、最初はお金があっても、コツコツと努力することが大事。
だから、環境によって左右されたらいけないと思いました。

C::音楽祭でTOKMAさんが歌うのをはじめに聞いて、今日は原曲研修だったんですが、演歌調といっても、私のイメージよりは演歌っぽくなかったけど、魂を歌うっていうところは、先生の声が大きくなるところとか、「悲しい」のところとかが、すごく響いてきました。

いかに私たちがわかっていないかを目にされているんだなと思うと、それが、腹が立つのでなく、悲しんでおられるんだなって思いました。

平凡という言葉を今までは、真ん中か、それ以下というイメージを持っていたけど、自分の捉え方が間違っていて、平凡こそというもの、平凡の中にあるっていうものをもっと見つめなおしたいなと思いました。

コツコツ努力すること、先生の言葉で「コツコツは勝つこつ」ってあったと思いますが、コツコツ努力し、その姿を見せてくださったことに、習っていけるようにしたい。

またこの曲は、「葛藤と回心」を追体験する研修ということで、回心のところで、戒定慧の戒のところ、自分にきちっと戒を立てるところが全然足りてないなと思いまして、まずは戒を何か決める、密かに決めていることがあるんですけど、それを日々続けていくことを決めました。
黄金の雨が降っても、動揺しません(笑)

D::原曲『影を売る女』の時も今回も、「平凡ってどういうことなんだろう?」と思って。あまりわかってなくって。

人よりすごく優れているとことか、人よりすごく劣っているとことか、そういうのがないのが、自分の中の平凡なのかなあ、とか思ったりするけど。

その「平凡なあなたで、分を知る」ってところで、今回ちょっと思ったんですけど。

「こつこつとその道を、ただ独りの道を、歩んでゆく」だから法友もいるけど、歩んでいくのは自分独りで、こつこつとやっていくしかないのかなと思いました。

あと、「ささやかなものに惑わされる自分が、悲しい、悲しい、悲しい」のところ、大きなものでなく、日常の中のちょっとしたことに行ってしまうことがあるかなと。

「自分の人生が、影法師になるかもしれないと、分からないのか」も、今一わかってなくって。
自分の人生が影になるっていうことですか?影ってどういう意味でしょう?

講師::実体がないってことですね。

D::実体がない…。だけど、なくてはならないもの?

講師:人生が影法師になったら、意味ないでしょ?ということ。

D:だけど、影自体はなくてはならない?

講師::影法師って、なくてはならないものではないけど、それがないとはどういうことかを、考えないといけない。

影ができるとは、そこに自分がいるということを、示してますよね。
それが無くなるとは、自分がいなくなるっていうこと。

映画のセリフで、影がない主人公に「あなたは幽霊なの?」っていうのがあったじゃないですか?

影がないとは、幽霊のこと。それは、人生を生きていないってこと。
成功して喜んでいても、その人生は全く自分の人生じゃないってこと。

D:影と影法師も、使い分けているんですか?

講師:使い分けておられますけど、影法師って、なんとなく人格を感じるじゃないですか。そういうことで使っているかもしれませんね。影だと、物のような感じだけど。

D:影は物質にもできるけど、影法師は人間の影って感じ?

講師:影法師の法師って、お坊さんの意味でもありますしね。修行者、一寸法師の法師。
修行してるようで、影の法師、存在しないっていう感じじゃないですかね。

E:「ささやかないものに惑わされる自分が、悲しい、悲しい、悲しい」のところが、神様から見ると、自分の手から、大事な仏弟子たちがこぼれ落ちていくのを見て、それが「悲しい、悲しい、悲しい」って言ってるように聞こえました。

「神仏よ、私を見捨て給うな」のところも、逆に「あなた達は神を忘れるな」っていう、すごい悲しい願いに聞こえました。

ちょっとしたことで道がずれていく人類たちを見て、すごく悲しんでおられる。

この「ささやかなもの」っていうのを、研修内の反省瞑想の中で振り返ってみて、私もちょっとした小さな嘘を言ったりしてることに気が付きました。

例えば、やる気が出ない日に、体調が悪いと仕事を休んでしまったり、とか。これも、小さな影を切り売りしてるんだなと、ようやくわかりました。これは、やばいです(笑)

「小さな嘘なんて、なんでもないじゃん」って自分は思うけど、その小さな嘘が意外と周りに大きな迷惑をかけていることもある。

それを頭でわかっていても、「小さいからいいじゃん」って思ってしまうところに、自分の真心を捨ててしまってるところがあったと思って、その真心を取り戻さないといけないです。

全体的に思ったのが、Bさんも言ってたけど、『ただ一人往く』と、あと『始まりのイエス』の歌詞も思い出しました。

「他人と比べることで、憎しみや争いが生まれて、それを止めるために私は降りてきた」っていう内容の歌詞で、人は勝手に他人と自分を比較して、「自分にはこれがない!ない!ない!」ってなって、影を売ってしまってるのかなと思って。

なぜ、「ない!ない!ない!」ばっかり、見てしまうんだろうと思いまして。
歌詞の「人の世は苦しくて」っていうのも、「ない!」と思えば苦しい。

例えば、「私には家族もいるし、仕事にも就けて、幸せだなあ」って思ったら、苦しくないし、だから見方の違いなのかなと思いました。

主の「あなたが生まれて、世界は美しくなりましたか?」っておっしゃってたのも、自分の心の持ちようで、自分の見えてる世界が、美しいか苦しいか、変わるんじゃないかなと。

その美しく見えるようになるには、やっぱり、自分の中の仏性を大事にして、小さな嘘もつかずに、愛とか真心を大事にしていく気持ちが、大事かなと思いました。自分への反省にもなりました。

F:たくさん気づきがあって、今回だけではふに落としきれないものも多かったので、何回も受けて、深めたいなと思いました。

最初に、意外なところがささって、それは最後の「神仏よ、私を見捨て給うな」のところ。

主の曲にはよく、大事な祈りの言葉が入ってるけど、「私はこれを祈れない」という思いが出てきたんです。
理由を考えていたら、自分の中に、まだ根深く「罪の子意識」が残ってるからではないかと。

「見捨て給うな」って祈るような境地に落ちるのは、自業自得、自己責任だから、反省や努力不足なのに、簡単に神に助けてって、祈ってはいけない、と思ってるのかも。

自分にも仏性があること、常に愛されていることを、少しずつ腑に落としてきてはいるけど、まだまだ奥に、「罪の子意識」が残ってる。
ここもまだまだ根深そうで、じっくり取り組みたいと思いました。

「自分の人生が、影法師になるかもしれない」のところは、アンデルセンの「影」っていう小説を思い出しました。

これは、シャミソーの「影を売った男」も元にしてるようだけど、全然内容が違って、真善美を探求しているけど世間に認められない学者の影がある時独立して、その影は地位も名誉もお金も手に入れて、さらに王女と結ばれるために、学者を影にしてしまうという、人生を影に乗っ取られるようなお話。

ささやかなことに惑わされ続けると、結局自分の人生が影法師になってしまう、という意味かなと感じました。

あと、他の方も言っていたように、平凡さの意味も考えてました。

『平凡からの出発』が、長い間、腑に落ちなくって、「なんで平凡からなんだろう」と。

主の平凡って、まずありのままの自分を見る、欠点だけでなく、仏性とか自分の素晴らしさを十分理解して、そこからコツコツ努力することかなと。

コツコツ努力するにも、この世的な成功も必要だけど、もっと「無欲の大欲」とか、神仏の方向への志をもつこと、だから、『平凡からの出発』とは、ある意味「縁起の理法」ではないかと感じました。

主の創られた転生輪廻のシステムって、この世に降りると、動物的な部分も強調されて、欲望に流されやすい状況の中にあえて置かれて、その中で、神仏の願うことを選び取れるかどうかを自分で選択できるから、魂の成長を促されるというところが、本当にすごいものだと、今回あらためて思いました。

毎日の中に奇跡を感じ取ることも、「大切なものが平凡さの中に宿っている」ことを知ることかもしれないと思いました。

今の段階で、黄金の雨が降った時、惑わされずにいられる自信はまだありません(笑)

講師:今回のテーマは、「平凡性の中に、すべてがある。本当の自分の価値がある」です。

平凡性とは、実は、素直で純粋なことでもあること。
私達の心は、主の御心とずれていて、壁が出来てしまう。その壁をなくすのが、純粋性、素直さ。

今回の意味は、素直さの教えともいえる。
素直でないから、自分なりの定義の幸福を求めてしまい、神の定義の幸福とは違うものを求めてしまい、それが不幸や苦しみになってしまう。

神が予定されている素直な自分を見出して、伸ばしていくことをしていけば、幸福になるが、自分の頭で考えた幸・不幸で、自分を定義してしまう。

今回の研修で一番思ったのが、平凡性のすごさ。
平凡性を突き詰めていくと、エル・カンターレに出会える。
みんな平凡性って、あまり価値が無いように思うんだけど、平凡性がまさに素直さで、それを突き詰めていくと、エル・カンターレと出会っていく。

これは「正しき心の探求」、正思です。
正思とは、エル・カンターレの御心を知っていくことであって、それは素直さだし、そのために平凡性を自覚する、自分は平凡なんだと。

平凡の中に宝があって、その宝を見つけて、育てていく。
外の価値観で自分を規定するのでなく、自分の平凡性の中にある価値を見つけて、育てていけば、エル・カンターレと一体となった形で、成功するという法則。

これが分からずに、自分流に成功を規定して、それを実現するために、「あれしなきゃ、これしなきゃ」と苦しんでいる。

先生が『平凡からの出発』っておっしゃってるのは、「平凡性の中に一番価値がある」ということ、それをまず見出し、育てなさいと。

仏法真理も、自分流の理解をしていると、結構“手枷足枷”になる。
平凡性がいかに価値あるものか、実は平凡性を悟るために、私達は修行している。

ところが普通人間の頭で言うと、「平凡になりたくない」と思っている。「いかに非凡になるか」という発想でもって考えをめぐらすから、答えを見出せない。

D:「人より抜きんでてるか、劣ってるか。自分はその中間だから、たいしたことない」って思ってしまうんですよね。

E:Cさんが言っていたように、平凡性を「平均より下」という、悪い意味にとっていた。
ここから切り替えないといけないですね。
この世的な考えに染まってしまってると思いました。

C:仏の子の自覚が、平凡性の自覚だと思わないと、「仏の子は尊いけど、平凡な私って、そんなに尊いと思えない」って。

「仏から宝を与えられている私は平凡であって、平凡というものの意味自体を入れ替えないといけない」ってことですね。

講師:総裁先生は10歳の時に、「自分の長所と短所を“つぶさ”に点検した」とおっしゃっている。これが平凡性の自覚。そうして、「自分は平凡だった」と。というレベルの平凡性。

先生のように、つぶさに点検してる人っていないと思う。ということは、平凡性を全然自覚していない。
普通の人とか、真ん中レベルとは全然違う。

つぶさに点検すると、神が自分に与えたもの、宝物が見えるってこと。これが平凡性の自覚。
ここが見えたら、この世的な価値なんかどうでもいい。とらわれない。

神様から与えられた平凡性をこれから育てていこうという気持ちになりますよね。

歌詞を読むと、平凡性ってそういうことですよね。
「平凡なあなたでいい」とは、神様があなたに仏の種を与え、それは平凡性の中に宿っているということ。
「命と同じ大切なものが、あなたの平凡さの中に宿っている」と。

あとはそれを、この世的な価値観で自分を変えようとしないで、その方向で育ててください、と。それをつかむのが、今日の原曲研修です。

※法談はいろんな話が出るので、あくまでも個人の意見であり感想です。こちらで適宜編集させていただいています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です